Mag-log in金曜日の夜。久しぶりに課のメンバーで飲みに行くことになった。
とはいえ、集まったのは水城と直、それに二課の後輩がふたりだった。理人はクライアント訪問が長引き、来られないと連絡があった。久我も予定があるらしい。課長は「俺がいると気ぃ遣うだろ」と遠慮した。
後輩ふたりは一時間ほどで「彼女と約束があるんで」と帰っていき、結局残ったのは水城と直のふたりだった。
「まあ、気楽でいいわ」
水城がジョッキを傾けた。
「だな。気遣わなくていいし」
直もハイボールを飲んだ。水城と飲むのは楽だ。仕事の愚痴も、くだらない話も、なんでも言える。気を遣わなくていい相手というのは貴重だ。
「で、最近どうよ。神谷との関係」
「関係って。別に変わんねえよ」
「嘘つけ。朝迎えに来てるらしいじゃねえか」
「なんで知ってんだよ」
「社内の噂、舐めんなよ。お前ら、朝一緒に出社してるの目撃されてんぞ」
水城がにやりと笑った。
「あのな、別に変な意味じゃなくて――」
「わかってるって。お前が変な意味じゃないと思ってるのも知ってる。問題は、周りがどう見るかだ」
「……それ、前も言ってたな」
「何回でも言う。事実だから」
直はハイボールを一口飲んだ。返す言葉がなかった。
「でもまあ、お前が楽しそうなのは悪いことじゃない」
「楽しそう? 俺が?」
「ああ。前よりいい顔してる。飯ちゃんと食って、寝て、仕事も回ってる。去年まで終電の常連だった夏目とは別人だよ」
「……まあ。それは間違いなく神谷のおかげだな」
「だろ。ただな」
水城がグラスを置いた。表情が少し変わった。
「いつかは自分でどうにかしないとな。神谷がいなくなったらどうすんだ」
「……いなくなるって」
「異動とか、転職とか。あいつだって自分の人生がある。いつまでもお前の隣にいるとは限らないだろ」
直は黙った。考えたことがなかった。理人がいなくなる。その想像が、妙にリアルに胸に刺さった。
理人のいない朝。弁当のない昼。ひとりで帰る夜。一か月前まではそれが当たり前だったのに、今はもう想像するだけで落ち着かない。
「まあ、今日は飲め。たまにはこういう夜もいい」
水城がジョッキを掲げた。直も合わせた。
それからふたりでさらに飲んだ。直は五杯目のハイボールに手を出していた。普段は二杯がいいところだ。理人がいない夜は、なんとなくペースが速くなった。グラスを置く度に、空いた隣の席が目に入った。
◆
店を出た。夜の空気が肌に冷たかった。六月に入ったばかりだが、夜風にはまだ五月の名残があった。
酔いが足に来ていて、まっすぐ歩けなくなっていた。水城に肩を貸してもらおうとした、そのとき声がした。
「先輩」
振り返ると、理人が立っていた。
「え……。お前、なんで」
「迎えに来ました」
水城が直と理人を交互に見た。
「お前が呼んだのか」
「呼んでねえよ」
「場所は聞いてませんでしたが、スケジュールアプリにお店の名前が入ってたので」
水城が呆れたように笑った。
「GPS追跡かよ」
「違います。管理です」
「……まあいいわ。こいつ結構飲んでるから、送ってやってくれ」
「はい」
水城が直の肩を叩いた。
「じゃあな。週末ゆっくり休めよ」
「おう……。わりい、最後まで付き合わせて」
「気にすんな。たまには素面で帰るのも悪くない」
水城が手を振って去っていく。繁華街の人混みの中に背中が消えた。
その背中を見送る間に、理人が直の隣に来ていた。近い。いつもの距離だ。
「歩けますか」
「……たぶん」
「無理しないでください。ゆっくり行きましょう」
理人が直の腕をそっと取った。支えるように、けれど強くは掴まなかった。理人の手は冷たかった。外でずっと待っていたのかもしれない。
◆
少し歩いたところで、直の足がもつれた。
「先輩、ちょっと休みましょう」
近くにあったコンビニの前のベンチに座らされた。夜風が冷たくて、酔った身体が震えた。薄手のシャツ一枚で飲みに出たのを後悔した。
「ここで待っていてください」
理人はコンビニの中に入っていった。
直はベンチに座ったまま、ぼんやりと夜空を見上げた。星は見えない。都会の空はいつもそうだ。街灯の光がぼんやりにじんで見える。酔いのせいだ。
コンビニの自動ドアが開く音がした。理人が戻ってきた。手にあたたかい缶を持っている。
「どうぞ」
差し出されたのは、コーンスープだった。缶があたたかい。
「……スープ?」
「身体が冷えてるでしょう。飲んでください」
直は缶を受け取った。手のひらにじんわりと温もりが広がる。冷えた指先が、じわじわとほどけていくような感覚だった。プルタブを開けて、ひとくち飲んだ。コーンの甘みが喉を通って、胸のあたりがあたたまった。
「あったかい……」
「よかったです」
理人は隣に座った。コンビニの蛍光灯の下で、理人の横顔が白く照らされていた。直を見ていた。いつもの無表情だったが、どこか安堵しているように見えた。まるで、この光景を確かめているかのような目だった。
コンビニの前のベンチで、隣に誰かがいて、あたたかいスープを手にしている。それだけのことなのに、理人がこんな目をする理由が、直にはわからなかった。
「サンキュ……。なんかお前、いつも俺のこと助けてくれるよな」
「管理ですから」
「管理、管理って……。お前は自分のこと後回しにしすぎだろ」
「そんなことないです」
「あるよ。毎朝迎えに来て、弁当作って、休みの日まで。お前、いつ休んでんだ」
「先輩の心配をする必要はありません」
理人の声が、少しだけ硬くなった。
直はスープを飲み干して、立ち上がろうとした。足元がふらつく。理人がすぐに手を添えた。
「タクシーで帰りましょう」
「ん……」
理人が大通りまで連れていって、タクシーを拾った。
◆
タクシーに乗り込むと、直の身体が揺れに合わせて傾いた。
理人の肩に、頭が当たった。
「……ん」
避けようとしたが、身体が動かなかった。理人のシャツの布地が頬に触れている。じんわりと体温が伝わってくる。さっき飲んだスープとは違う、人の温度だった。
「あったかい……」
理人は動かなかった。直の頭を肩に乗せたまま、じっとしていた。
耳の奥で、心臓の音が聞こえた。速い。自分のものか、理人のものか、わからない。肩越しに感じる理人の呼吸が、いつもより深くなっている気がした。
理人の匂いがした。香水ではない。もっとかすかな、石鹸のような、あたたかい匂い。酔った頭にそれが沁みて、もっと近くにいたいと思った。無意識に、理人の肩口に顔を寄せた。鼻先がシャツの襟に触れた。
「先輩……」
理人の声が、頭の上から降ってきた。いつもの声と違った。低くて、かすれていて、なにかを堪えているような声。
「……ん……」
「……寝てますか」
返事ができなかった。眠りかけているのか、まだ意識があるのか、自分でもわからなかった。ただ、理人の体温と匂いの中にいると、溶けてしまいそうだった。
直の首筋に、呼吸がかかった。あたたかい吐息。それだけで、肌がぞくりとした。
理人の顔が近づいてくるのがわかった。息がかかるほどの距離で。首の横、耳の下あたりに、あたたかい空気が触れた。
そして――なにかが、触れた。
首筋に。かすかに。羽が触れるように。
やわらかくて、熱い。指ではなかった。もっとやわらかくて、もっとあたたかいなにか。酔った頭では、それがなんなのか判断がつかなかった。
そのなにかが、首筋の上をかすめるように動いた。耳の下から、鎖骨の手前まで。触れるか触れないかの圧力で。ゆっくりと。理人の吐息が首に絡みつくように広がって、直の背中に細かい震えが走った。
理人の呼吸が乱れていた。深く、押し殺すように。抑えようとして、抑えきれていない息だった。
「……っ」
理人が身を引いた。急に、あたたかさが遠のいた。
冷たい空気が首筋に触れて、直は無意識に理人のほうへ手を伸ばした。
「り……ひと……」
名前が、唇からこぼれた。
理人の手が、伸ばした直の手をそっと押し返した。力は入っていなかった。けれど、確かに拒まれた。
「……寝ててください」
その声が震えていた。車の振動のせいではない。はっきりと、震えていた。
理人の体温が遠のいていく。追いかけたかった。けれどまぶたが重くて、指先から力が抜けていった。
最後に聞こえたのは、理人が深く息を吐く音だった。それきり、意識が沈んだ。
◆
だしの香りで目が覚めた。
見慣れた天井。自分の部屋だ。布団の中にいた。パジャマに着替えさせられていた。昨日の服はたたんで椅子の上に置かれていた。枕元にペットボトルの水とアスピリンが置いてある。
キッチンから音がする。まな板を包丁が叩く小さな音と、鍋の蓋がカタカタ揺れる音。
身体を起こすと、頭がずきんと痛んだ。水を一口飲んで、アスピリンを飲み込んだ。
「先輩、おはようございます」
理人がキッチンに立っていた。白いシャツにネイビーのパンツ。いつもと変わらない姿だった。昨日着ていた服とは違う。一度帰って着替えて来たのか、それとも着替えを持ってきていたのか。
「朝ごはんできてます。体調はどうですか」
「……頭が痛い。でも吐き気はない」
「よかったです。胃にやさしいものにしました」
ローテーブルに卵がゆと味噌汁が並んでいた。直はのろのろとテーブルに向かった。
「いただきます」
卵がゆを口に運んだ。だしがきいたやさしい味だった。卵がふんわりと溶けていて、酔い明けの胃に、じんわりと沁みる。
「うまい……。昨日飲みすぎた胃にちょうどいい」
「飲みすぎです。普段二杯しか飲まない人が五杯も飲んだら当然です」
「……五杯だったっけ」
「財布にレシートが入ってました」
直はため息をついた。なにもかも把握されている。
理人は向かいに座って、自分の分の味噌汁を飲んでいた。いつも通り。なにも変わらない。背筋がまっすぐで、箸の持ち方がきれいで。酔っ払いの世話をして、朝早くから卵がゆを作って、それなのに疲れた顔一つしていない。
直はちらりと理人を見た。
昨日のことを、思い出そうとした。
店を出て、理人が迎えに来ていた。コンビニでスープを買ってもらった。タクシーに乗った。理人の肩にもたれた。あたたかかった。それは覚えている。
そのあとの記憶が、曖昧だった。
首筋に、なにかが触れた。あたたかくて、やわらかいもの。夢だったのかもしれない。酔っていたから、記憶が断片的だ。
でも、首筋にまだ感触が残っている気がする。
「……なあ、神谷」
「はい」
「昨日、なんかあったか」
理人の箸が、一瞬だけ止まった。ほんの一瞬。すぐに動き始めた。
「なにもありませんよ。先輩はタクシーの中で寝てしまったので、部屋まで運びました」
「そうか……」
「それだけです」
理人の声は平坦だった。いつも通りだった。
直は卵がゆを食べ続けた。聞いてはいけないことを聞いた気がして、それ以上追及できなかった。
食事が終わると、理人が食器を片付けた。シンクで洗い物をしている背中を見ながら、直はソファに座っていた。
「先輩」
理人が振り返らずに言った。
「なんだ」
「……先輩は、人にやさしくしすぎです」
「は? 急になんだよ」
「なんでもありません」
理人は食器を拭いて、棚に戻した。背中からはなにも読み取れなかった。
人にやさしくしすぎ。意味がわからなかった。酔っ払いの世話をさせたことへの皮肉だろうか。でも、理人の声は皮肉には聞こえなかった。もっと深いところから出てきた言葉のように聞こえた。まるで、ずっと前から思っていたことを、やっと口にしたかのような。
「片付け終わりました。それでは」
理人が靴を履いた。いつも通りの動作。いつも通りの手際。なにも変わらない。
「おう。今日は……ありがとな。昨日も」
「管理の範囲です」
ドアが閉まった。
直はソファに座ったまま、首筋にそっと指を当てた。なにかが触れた気がする。唇のような温度。耳の下から鎖骨の手前まで。あたたかくて、やわらかいもの。
夢だったのかもしれない。けれど、触れた場所がこんなにもはっきりと残っているのは、夢にしてはリアルすぎた。
目の前のキッチンには、さっきまで理人がいた。食器は洗われ、テーブルは拭かれ、なにもかもいつも通りに片付けられていた。
なのに。
首に残る感触と、理人がなにも言わなかったことの間に、答えの出ない問いがあった。
――昨夜、あいつの仮面が、一瞬だけ外れた気がした。
まるで太陽のような人だと思った。◆ 俺には友達が少ない。 小学校のころからずっとそうだった。人見知りが強く、自分から話しかけることができない。話しかけてもらっても、なにを話せばいいのかわからず、黙ってしまう。表情が乏しいとよく言われた。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉がうまく動かないだけだ。 中学、高校と進んでも変わらなかった。クラスに馴染めず、休み時間はひとりで本を読んでいた。話しかけてくれる人がいなかったわけではない。けれど、会話が続かない。相手が気まずそうな顔をするのを見て、申し訳なくなって、自分から距離を置いてしまう。その繰り返しだった。 大学に入っても同じだった。講義のある日は大学に行き、終わればすぐに帰る。サークルにも入らなかった。入りたい気持ちはあった。けれど、あの輪の中に飛び込む勇気がなかった。 そんな俺にも、数えるほどだが友達はいた。同じ学科の佐々木という男が、入学初日に隣の席に座って「よろしくな」と話しかけてきた。俺が黙っていても気にしない男だった。沈黙を苦にしないタイプで、それが俺には楽だった。 大学一年の秋。その佐々木に「学園祭に一緒に行かないか?」と誘われた。「学園祭?」「明正大学の。彼女がそこに通ってるんだ。学園祭に来てほしいって言われてさ」「……俺が行っても邪魔じゃないか」「邪魔なわけねえだろ。ひとりで行くのもさびしいし」 断る理由もなかった。他の大学に行く機会なんてめったにない。それに、佐々木に誘われて断るのは申し訳ない。数少ない友達のひとりだ。 十月の土曜日。明正大学の学園祭に行った。 キャンパスは人で溢れていた。模擬店が並び、あちこちから音楽や笑い声が聞こえてくる。色とりどりの看板や幟がはためいている。楽しそうだった。けれど、俺にはその楽しさに入っていけない感覚があった。いつもそうだ。人が楽しんでいる場所にいると、自分だけがガラス一枚向こう側にいるような気持ちになる。見えているのに、そこに触れられない。 佐々木とふたりで回った。焼きそばを買って、たこ焼きを買って、ステージでバンドの演奏を聴いた。佐々木は楽しそうだった。俺は佐々木の横を黙ってついて歩いていた。 しばらくすると、佐々木の彼女がやってきた。「りっちゃーん!」と手を振りながら駆けてくる。佐々木の顔がぱっと明るくな
朝起きると、隣に理人が眠っていた。 ――よかった……。夢じゃなかった。 隣ですうすうと寝息を立てている理人を見て、ほっとした。昨日のことが、夢のように感じられたからだ。あんなに大切に抱かれるなんて、思ってもみなかった。思い出しただけでも、カッと頬に熱がこもる。 狭いシングルベッドに大人の男がふたり。けれどちっとも狭く感じないのは、理人が直をやさしく抱き寄せて眠っているからだ。 鼻先がくっつきそうな距離で理人の顔をじっと見つめる。 長いまつ毛が朝日を浴びて、頬に影を落としていた。起きているときはキリッとした印象だが、眠っているときはふんわりとやわらかい印象だ。「もう、俺から離れるな」 直は小さくつぶやいて、理人の額にキスを落とした。「はい。もうどこにもいきません」 急に理人が目を開けて、心臓が跳ねた。「お、お前っ! 起きてたのかよ……」「直が俺のこと見てくれてたんで、寝たふりしてました」「ば、ばかっ! 恥ずかしいだろ」「なんでですか? 俺はうれしいです」 理人が直を包んでいる腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめた。「もう離れないし、離してあげません」「そんなの……俺だって同じだよ」 上目遣いで理人を見ると、目が合った。まだ信じられない。後輩だった男と、こんな関係になっているなんて。恥ずかしさが抜けきらなくて、まるで初めて恋をしているようだった。 いや、実際に初めての恋なのだ。今まで本気で誰かを好きになったことがなくて、理人が初めて本気で好きになった相手なのだから。 お互いに見つめ合うと、自然と唇が重なった。お互いの想いを確かめるキスだった。 理人がベッドから身体を起こした。「じゃあ、朝ごはん作りますね」「おう。じゃあ俺も手伝う」「直は座って――」 直は理人の口を指先で塞いだ。「おい、昨日俺
理人が出ていって、どれくらい時間が経っただろう。 散らかった部屋の中で、直はひとり座っていた。理人がさっき脇に寄せてくれたテーブルの上を見つめている。コーヒーの匂いが残っている。理人の匂いが残っている。 好きだって言われた。「好きです。先輩のことが。ずっと。これからも」。あの声は本物だった。震えていて、かすれていて、七年分の重さがこもっていた。 なのに去っていった。 直には理人の行動が理解できなかった。好きなのに離れる。覚悟があるのに泣きそうな顔をしている。近づかないと言いながら、わざわざ大阪から東京まで来ている。全部、矛盾している。 けれど。 去り際の理人の顔を思い出した。あの表情。目が潤んで、唇が震えて、背中が丸くなって。あれは、離れたい人間の顔じゃなかった。離れたくないのに、離れなければいけないと思い込んでいる顔だった。 理人はこわいのだ。 管理という枠組みを外したら、自分がどうすればいいのかわからない。直のそばにいる方法が、管理以外にわからない。管理を手放したら、自分はただの執着していた後輩に戻ってしまう。そう思い込んでいる。 ――馬鹿だな、あいつ。 じゃあ、自分はどうだ。 直は管理される側はもう嫌だと言った。対等に立ちたいと言った。それは、理人から世話を焼かれるのが嫌なのではない。自分も理人になにかをしてやりたいと思ったからだ。 今までは彼女に世話を焼かれるばかりだった。自分から誰かに尽くしたいと思ったことなんてなかった。理人が初めてだ。理人のために弁当を作りたいと思った。理人の部屋を掃除したいと思った。理人が疲れて帰ってきたとき、あたたかいものを用意して待っていたいと思った。 世話を焼きたい。その気持ちの正体が、今ならわかる。 愛おしいから、大切だから、大事にしたいから——世話を焼きたいのだ。 だから理人は直のために毎日弁当を作ってくれたのだ。直の好きな味付けの、直の好きな献立で。直がくつろげるように家を掃除してくれた。体の疲れが取れるように、バランスの取れた食事を作り置きしてくれた。全
大阪で自分の気持ちを全部伝えた。 好きだと言った。対等に立ちたいと言った。管理じゃなくて、と。直にできることは全部やった。あとは、理人の答えを待つだけだ。そう思っていた。 けれど理人からは「考えさせてください」と言われた。返事は保留になった。拒絶ではないが、受け入れてもらったわけでもない。よろよろと公園の暗がりに消えていった理人の背中が、まだ目に焼きついている。 東京に戻ると、水城や梨沙が心配そうにこちらを見ていた。けれど、なにも聞いてこなかった。直の表情を見て、察したのだろう。聞かないでいてくれるやさしさが、逆にこたえた。 待つと決めたのは自分だ。七年待たせた。今度は自分が待つ番だ。 けれど、待つのはこんなにもつらいものなのだろうか。朝起きて、スマートフォンを見る。通知はない。仕事に行く。昼休み、スマートフォンを見る。通知はない。帰宅して、また見る。ない。その繰り返しが、毎日続いた。 直が大阪を訪れてから二週間が経った。理人からの連絡は一通のメッセージも、一本の電話もなかった。 もう、このまま終わるのだろうか。 不安が押し寄せてきた。仕事をしていても集中できない。もう無理なのかもしれない。直の告白が、逆に理人を追い詰めてしまったのではないか。「管理はいらない。対等にいたい」。あの言葉が、理人にとっては拒絶に聞こえたのかもしれない。直は前に進むつもりで言った。けれど理人にとっては、居場所を奪われたように感じたのかもしれない。 だとしたら、直はまた間違えたのだろうか。距離を置こうと言ったときと同じように。良かれと思ってしたことが、裏目に出る。直はいつもそうだ。 たった二週間なのに、もう何年も待っているような感覚だった。 理人は七年も待っていた。その間、ずっとひとりで。直のことを想いながら、声をかけられない距離で。好きだと言えない場所で。そう考えると、気が遠くなった。直は二週間で音を上げかけている。理人は七年間、一度も弱音を吐かなかった。その忍耐力と、その孤独に、今さらながら胸が痛んだ。 考えても答えは出なかった。理人の気持ちは理人にしかわからない。直にでき
直は何度、自分に「逃げるな」と言い聞かせただろうか。 距離を置こうと自分から言い出したのに、理人に冷たくされるとつらくて泣いた。水城に背中を押され、梨沙に問いかけられ、相沢に励まされて、ようやくここまで来た。そして理人の七年分の告白を聞いた今、今度は自分が伝える番だ。 自分のことなのに、他人に背中を押されないと前に進めない。情けないし、みっともない。二十七にもなって、なおさら情けない。 けれど、直は会社を半日休んで新幹線に乗り、大阪までやってきたのだ。今まで来たことのない街に、理人に会うためだけに。それだけは、自分の意志だ。水城に言われたからでも、梨沙に促されたからでもない。理人に会いたかった。自分の言葉で伝えたかった。ここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。 ここには水城も相沢も梨沙もいない。背中を押してくれる人は誰もいない。この公園のベンチには、直と理人のふたりだけだ。 自分の足で前に進まなければいけない。自分の言葉で伝えなければいけない。 理人も七年間の想いを伝えてくれた。学園祭のこと。冬の夜のこと。SNSのこと。入社の理由。全部、さらけだしてくれた。あの理人が。感情を表に出さない理人が。「管理です」の一言で全部を隠してきた理人が。直の前で、七年分の蓋を開けてくれた。 本当は言うつもりなどなかったかもしれない。「答えはいりません。知ってほしかっただけです」と言って立ち去ろうとした。直が引き止めたのだ。 だから今度は自分の番だ。理人がさらけだしてくれた分、直もさらけだす。 直は大きく深呼吸をした。夜の公園の空気を吸い込んだ。夏のなごりの熱を含んだ風が頬を撫でた。握った拳の中にじっとりと汗が滲んでいた。街灯の明かりが理人の横顔を照らしている。 直は理人を見た。隣に座っている理人と目が合った。理人の目はまだ揺れている。七年分の告白をした後の、丸裸になった目。直がなにを言うのか、待っている目。こわいような、期待しているような。けれど期待していることを自分に許していないような、複雑な目だった。 なんのために大阪まで来たんだ。しっかりしろ。 自分を叱咤して口を開いた。
理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」
金曜日の朝、久しぶりに直の家のインターホンが鳴った。 直はいそいそと玄関に向かった。「おはよう」「おはようございます」 玄関前に理人が立っていた。白いシャツにネイビーのパンツという、いつもの格好だ。肩に雨粒が少しついている。直は口元が緩みそうになるのを堪えた。「今日も雨だな」「一日降り続くようです。折り畳みじゃないほうがいいですよ」「おう」 直がしゃがんで靴を履いていると、頭上から理人の声が降ってきた。「……ひどいで
理人が距離を置いてから、数日が経っていた。 弁当はない。朝の迎えもない。帰りも別々だ。会社でも、必要最低限の会話しかしない。 これが、管理が始まる前の生活だったのだ。ほんの二か月前まではこれが普通だったのに、今は毎日がやけに長く感じた。 その日の夕方、直はひとりで会社の最寄り駅へ向かって歩いていた。六月の空はまだ明るくて、夕日がビルの谷間に沈みかけていた。「あれ、直くん?」 声をかけられて振り返った。見覚えのある顔だった。「……あゆみ?
熱は下がった。けれど身体のだるさは抜けなかった。 とはいえ、二日も仕事を休むわけにはいかない。直は重い身体を動かし、出勤の準備をした。 いつもの時間になっても、インターホンが鳴らない。理人が迎えに来ない朝は久しぶりだった。入れ違いにならないよう、理人にメッセージを送った。『今日、出社するから』 すぐに返信がきた。『すみません。今日は迎えに行けません』 来られないのか。理人は、直が昨日に続いて休むと思っていたのかもしれない。けれど、その一文にはいつもの「気をつけてください」がなかった。
朝起きたら、身体がだるかった。 頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。「あー……やっちまったな」 電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。 鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。「……だよな」 原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。 夕方から急に雨が降りだした。六