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第七話 境界線

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-03-07 19:00:05

 金曜日の夜。久しぶりに課のメンバーで飲みに行くことになった。

 とはいえ、集まったのは水城と直、それに二課の後輩がふたりだった。理人はクライアント訪問が長引き、来られないと連絡があった。久我も予定があるらしい。課長は「俺がいると気ぃ遣うだろ」と遠慮した。

 後輩ふたりは一時間ほどで「彼女と約束があるんで」と帰っていき、結局残ったのは水城と直のふたりだった。

「まあ、気楽でいいわ」

 水城がジョッキを傾けた。

「だな。気遣わなくていいし」

 直もハイボールを飲んだ。水城と飲むのは楽だ。仕事の愚痴も、くだらない話も、なんでも言える。気を遣わなくていい相手というのは貴重だ。

「で、最近どうよ。神谷との関係」

「関係って。別に変わんねえよ」

「嘘つけ。朝迎えに来てるらしいじゃねえか」

「なんで知ってんだよ」

「社内の噂、舐めんなよ。お前ら、朝一緒に出社してるの目撃されてんぞ」

 水城がにやりと笑った。

「あのな、別に変な意味じゃなくて――」

「わかってるって。お前が変な意味じゃないと思ってるのも知ってる。問題は、周りがどう見るかだ」

「……それ、前も言ってたな」

「何回でも言う。事実だから」

 直はハイボールを一口飲んだ。返す言葉がなかった。

「でもまあ、お前が楽しそうなのは悪いことじゃない」

「楽しそう? 俺が?」

「ああ。前よりいい顔してる。飯ちゃんと食って、寝て、仕事も回ってる。去年まで終電の常連だった夏目とは別人だよ」

「……まあ。それは間違いなく神谷のおかげだな」

「だろ。ただな」

 水城がグラスを置いた。表情が少し変わった。

「いつかは自分でどうにかしないとな。神谷がいなくなったらどうすんだ」

「……いなくなるって」

「異動とか、転職とか。あいつだって自分の人生がある。いつまでもお前の隣にいるとは限らないだろ」

 直は黙った。考えたことがなかった。理人がいなくなる。その想像が、妙にリアルに胸に刺さった。

 理人のいない朝。弁当のない昼。ひとりで帰る夜。一か月前まではそれが当たり前だったのに、今はもう想像するだけで落ち着かない。

「まあ、今日は飲め。たまにはこういう夜もいい」

 水城がジョッキを掲げた。直も合わせた。

 それからふたりでさらに飲んだ。直は五杯目のハイボールに手を出していた。普段は二杯がいいところだ。理人がいない夜は、なんとなくペースが速くなった。グラスを置く度に、空いた隣の席が目に入った。

 店を出た。夜の空気が肌に冷たかった。六月に入ったばかりだが、夜風にはまだ五月の名残があった。

 酔いが足に来ていて、まっすぐ歩けなくなっていた。水城に肩を貸してもらおうとした、そのとき声がした。

「先輩」

 振り返ると、理人が立っていた。

「え……。お前、なんで」

「迎えに来ました」

 水城が直と理人を交互に見た。

「お前が呼んだのか」

「呼んでねえよ」

「場所は聞いてませんでしたが、スケジュールアプリにお店の名前が入ってたので」

 水城が呆れたように笑った。

「GPS追跡かよ」

「違います。管理です」

「……まあいいわ。こいつ結構飲んでるから、送ってやってくれ」

「はい」

 水城が直の肩を叩いた。

「じゃあな。週末ゆっくり休めよ」

「おう……。わりい、最後まで付き合わせて」

「気にすんな。たまには素面で帰るのも悪くない」

 水城が手を振って去っていく。繁華街の人混みの中に背中が消えた。

 その背中を見送る間に、理人が直の隣に来ていた。近い。いつもの距離だ。

「歩けますか」

「……たぶん」

「無理しないでください。ゆっくり行きましょう」

 理人が直の腕をそっと取った。支えるように、けれど強くは掴まなかった。理人の手は冷たかった。外でずっと待っていたのかもしれない。

 少し歩いたところで、直の足がもつれた。

「先輩、ちょっと休みましょう」

 近くにあったコンビニの前のベンチに座らされた。夜風が冷たくて、酔った身体が震えた。薄手のシャツ一枚で飲みに出たのを後悔した。

「ここで待っていてください」

 理人はコンビニの中に入っていった。

 直はベンチに座ったまま、ぼんやりと夜空を見上げた。星は見えない。都会の空はいつもそうだ。街灯の光がぼんやりにじんで見える。酔いのせいだ。

 コンビニの自動ドアが開く音がした。理人が戻ってきた。手にあたたかい缶を持っている。

「どうぞ」

 差し出されたのは、コーンスープだった。缶があたたかい。

「……スープ?」

「身体が冷えてるでしょう。飲んでください」

 直は缶を受け取った。手のひらにじんわりと温もりが広がる。冷えた指先が、じわじわとほどけていくような感覚だった。プルタブを開けて、ひとくち飲んだ。コーンの甘みが喉を通って、胸のあたりがあたたまった。

「あったかい……」

「よかったです」

 理人は隣に座った。コンビニの蛍光灯の下で、理人の横顔が白く照らされていた。直を見ていた。いつもの無表情だったが、どこか安堵しているように見えた。まるで、この光景を確かめているかのような目だった。

 コンビニの前のベンチで、隣に誰かがいて、あたたかいスープを手にしている。それだけのことなのに、理人がこんな目をする理由が、直にはわからなかった。

「サンキュ……。なんかお前、いつも俺のこと助けてくれるよな」

「管理ですから」

「管理、管理って……。お前は自分のこと後回しにしすぎだろ」

「そんなことないです」

「あるよ。毎朝迎えに来て、弁当作って、休みの日まで。お前、いつ休んでんだ」

「先輩の心配をする必要はありません」

 理人の声が、少しだけ硬くなった。

 直はスープを飲み干して、立ち上がろうとした。足元がふらつく。理人がすぐに手を添えた。

「タクシーで帰りましょう」

「ん……」

 理人が大通りまで連れていって、タクシーを拾った。

 タクシーに乗り込むと、直の身体が揺れに合わせて傾いた。

 理人の肩に、頭が当たった。

「……ん」

 避けようとしたが、身体が動かなかった。理人のシャツの布地が頬に触れている。じんわりと体温が伝わってくる。さっき飲んだスープとは違う、人の温度だった。

「あったかい……」

 理人は動かなかった。直の頭を肩に乗せたまま、じっとしていた。

 耳の奥で、心臓の音が聞こえた。速い。自分のものか、理人のものか、わからない。肩越しに感じる理人の呼吸が、いつもより深くなっている気がした。

 理人の匂いがした。香水ではない。もっとかすかな、石鹸のような、あたたかい匂い。酔った頭にそれが沁みて、もっと近くにいたいと思った。無意識に、理人の肩口に顔を寄せた。鼻先がシャツの襟に触れた。

「先輩……」

 理人の声が、頭の上から降ってきた。いつもの声と違った。低くて、かすれていて、なにかを堪えているような声。

「……ん……」

「……寝てますか」

 返事ができなかった。眠りかけているのか、まだ意識があるのか、自分でもわからなかった。ただ、理人の体温と匂いの中にいると、溶けてしまいそうだった。

 直の首筋に、呼吸がかかった。あたたかい吐息。それだけで、肌がぞくりとした。

 理人の顔が近づいてくるのがわかった。息がかかるほどの距離で。首の横、耳の下あたりに、あたたかい空気が触れた。

 そして――なにかが、触れた。

 首筋に。かすかに。羽が触れるように。

 やわらかくて、熱い。指ではなかった。もっとやわらかくて、もっとあたたかいなにか。酔った頭では、それがなんなのか判断がつかなかった。

 そのなにかが、首筋の上をかすめるように動いた。耳の下から、鎖骨の手前まで。触れるか触れないかの圧力で。ゆっくりと。理人の吐息が首に絡みつくように広がって、直の背中に細かい震えが走った。

 理人の呼吸が乱れていた。深く、押し殺すように。抑えようとして、抑えきれていない息だった。

「……っ」

 理人が身を引いた。急に、あたたかさが遠のいた。

 冷たい空気が首筋に触れて、直は無意識に理人のほうへ手を伸ばした。

「り……ひと……」

 名前が、唇からこぼれた。

 理人の手が、伸ばした直の手をそっと押し返した。力は入っていなかった。けれど、確かに拒まれた。

「……寝ててください」

 その声が震えていた。車の振動のせいではない。はっきりと、震えていた。

 理人の体温が遠のいていく。追いかけたかった。けれどまぶたが重くて、指先から力が抜けていった。

 最後に聞こえたのは、理人が深く息を吐く音だった。それきり、意識が沈んだ。

 だしの香りで目が覚めた。

 見慣れた天井。自分の部屋だ。布団の中にいた。パジャマに着替えさせられていた。昨日の服はたたんで椅子の上に置かれていた。枕元にペットボトルの水とアスピリンが置いてある。

 キッチンから音がする。まな板を包丁が叩く小さな音と、鍋の蓋がカタカタ揺れる音。

 身体を起こすと、頭がずきんと痛んだ。水を一口飲んで、アスピリンを飲み込んだ。

「先輩、おはようございます」

 理人がキッチンに立っていた。白いシャツにネイビーのパンツ。いつもと変わらない姿だった。昨日着ていた服とは違う。一度帰って着替えて来たのか、それとも着替えを持ってきていたのか。

「朝ごはんできてます。体調はどうですか」

「……頭が痛い。でも吐き気はない」

「よかったです。胃にやさしいものにしました」

 ローテーブルに卵がゆと味噌汁が並んでいた。直はのろのろとテーブルに向かった。

「いただきます」

 卵がゆを口に運んだ。だしがきいたやさしい味だった。卵がふんわりと溶けていて、酔い明けの胃に、じんわりと沁みる。

「うまい……。昨日飲みすぎた胃にちょうどいい」

「飲みすぎです。普段二杯しか飲まない人が五杯も飲んだら当然です」

「……五杯だったっけ」

「財布にレシートが入ってました」

 直はため息をついた。なにもかも把握されている。

 理人は向かいに座って、自分の分の味噌汁を飲んでいた。いつも通り。なにも変わらない。背筋がまっすぐで、箸の持ち方がきれいで。酔っ払いの世話をして、朝早くから卵がゆを作って、それなのに疲れた顔一つしていない。

 直はちらりと理人を見た。

 昨日のことを、思い出そうとした。

 店を出て、理人が迎えに来ていた。コンビニでスープを買ってもらった。タクシーに乗った。理人の肩にもたれた。あたたかかった。それは覚えている。

 そのあとの記憶が、曖昧だった。

 首筋に、なにかが触れた。あたたかくて、やわらかいもの。夢だったのかもしれない。酔っていたから、記憶が断片的だ。

 でも、首筋にまだ感触が残っている気がする。

「……なあ、神谷」

「はい」

「昨日、なんかあったか」

 理人の箸が、一瞬だけ止まった。ほんの一瞬。すぐに動き始めた。

「なにもありませんよ。先輩はタクシーの中で寝てしまったので、部屋まで運びました」

「そうか……」

「それだけです」

 理人の声は平坦だった。いつも通りだった。

 直は卵がゆを食べ続けた。聞いてはいけないことを聞いた気がして、それ以上追及できなかった。

 食事が終わると、理人が食器を片付けた。シンクで洗い物をしている背中を見ながら、直はソファに座っていた。

「先輩」

 理人が振り返らずに言った。

「なんだ」

「……先輩は、人にやさしくしすぎです」

「は? 急になんだよ」

「なんでもありません」

 理人は食器を拭いて、棚に戻した。背中からはなにも読み取れなかった。

 人にやさしくしすぎ。意味がわからなかった。酔っ払いの世話をさせたことへの皮肉だろうか。でも、理人の声は皮肉には聞こえなかった。もっと深いところから出てきた言葉のように聞こえた。まるで、ずっと前から思っていたことを、やっと口にしたかのような。

「片付け終わりました。それでは」

 理人が靴を履いた。いつも通りの動作。いつも通りの手際。なにも変わらない。

「おう。今日は……ありがとな。昨日も」

「管理の範囲です」

 ドアが閉まった。

 直はソファに座ったまま、首筋にそっと指を当てた。なにかが触れた気がする。唇のような温度。耳の下から鎖骨の手前まで。あたたかくて、やわらかいもの。

 夢だったのかもしれない。けれど、触れた場所がこんなにもはっきりと残っているのは、夢にしてはリアルすぎた。

 目の前のキッチンには、さっきまで理人がいた。食器は洗われ、テーブルは拭かれ、なにもかもいつも通りに片付けられていた。

 なのに。

 首に残る感触と、理人がなにも言わなかったことの間に、答えの出ない問いがあった。

 ――昨夜、あいつの仮面が、一瞬だけ外れた気がした。

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